エルネスト・ナザレ
Ernest Nazareth

(1863年〜1934年)
 ナザレは1863年3月20日リオ・デ・ジャネイロで、税官吏であった父とピアニストの母との間に生まれた。幼少より母親にピアノを習い始めたが、家計は貧しく、10才で母を失ったあとはブラジル銀行の奨学金によって、Eduardo Medeira(メディラ)とLucien Lambert(ランベルト)のもとでピアノの勉強を続けた。当時からショパンに大変熱を上げ、やがてポルカやマズルカを作曲するようになる。14才の時に作曲したポルカ「Voce bem Sada! あなたはよくご存知」が初めて出版され、1884年、自作の詩をつけたポルカ「Beija-Flor はち鳥」が人気を博した。そしてナザレの評判は次第に上がり、ピアニスト・作曲家として多くの仕事を得て、経済的にも豊かになった。
 1886年、23才で結婚しもっとも幸せな時を迎えた。ブラジル中で曲が発表され、様々なところに招かれ、自作の曲からショパンやベートーヴェンの作品にいたるまで演奏を行った。1910年頃から、当時の知識人や上流階級の人々が多数出入りするシネマ・オデオンのロビーでも演奏するようになり、多くの作品が生まれた。オデオンでは後にヴィラ=ロボスもチェロを弾き、ナザレとともに仕事をし、大変影響を受けている。
 1917年娘のMaria de Lourdes(マリア・デ・ルーデス)がインフルエンザのために病死し、そのショックのあまり家に閉じこもるようになった。重ねて子供の頃に怪我をした耳の障害が悪化していく。そんな姿を心配した友人たちガ、リオを出て気分を変えるようにとサン・パウロのTeatro Municipal(市立劇場)とカンピナスのConservatorio(音楽学校)での演奏の仕事を勧め、生まれて初めてリオを離れることとなった。
 レコードやラジオの普及と共にナザレの音楽は国境を超え、その人気はますます上がり、ハリウッドの映画にも度々取り入れられるようになったが、1929年妻が亡くなり、その3年後、ウルグアイの旅の最中衰弱し、リオに戻って医者の診断を受けた結果は”梅毒”ということであった。二つの病院で治療を行ったが、神経を冒されて回復は困難な状態だった。1933年、リオの郊外のジャカレパグアの保護施設に入ったが、著名人だったため、特別待遇で所長室のピアノを弾く許可を得ることができた。
 1934年2月1日、仲間の患者に「家に帰る」と言って施設から抜け出した。しかし、向かった方向は家とは逆の森の方で三日後遺体が見つかった。
 リオの新聞によると、「森の中の滝のすぐそばで、すわったまま手を伸ばし、見えないピアノを弾いている姿で死んでいた。」と報道されたが、折りしもリオはカーニバルが始まる直前だったため、その死はあまり人々の記憶に残るところとはならなかった。  

エルネスト・ナザレ Ernest Nazareth

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